|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 大陸 : [たいりく] 【名詞】 1. continent ・ 陸 : [りく, ろく] (adj-na,n) six (used in legal documents) ・ 陸軍 : [りくぐん] 【名詞】 1. army ・ 軍 : [ぐん] 1. (n,n-suf) army 2. force 3. troops
大陸軍(たいりくぐん、)は、アメリカ独立戦争中にイギリス軍に対抗するために作られた、アメリカ13植民地の統一された命令系統を持つ軍隊である。なお、「独立軍」と表記されている日本の歴史教科書もある〔『中学社会 歴史』(教育出版。平成8年2月29日 文部省検定済。教科書番号:17教出 歴史762)p 155に「独立軍は, ヨーロッパ諸国の支援も得て, 勝利をおさめ, 13植民地はアメリカ合衆国として正式に独立を認められた。」と記載され、『【改訂版】詳説世界史』(山川出版社。1997年3月31日 文部省検定済。教科書番号:81山川 世B575)p 206に「独立軍は, はじめ武器, 食料の不足などで苦戦したが」「独立軍がヨーロッパ諸国の支援をえたのは」と記載されている。〕。大陸軍は1775年6月14日の大陸会議決議に基づいて結成された。大陸軍の行動は各植民地の民兵隊やその管制下に残されていた部隊の支援を受けた。独立戦争の全期間を通じてジョージ・ワシントンがその総司令官を務めた。 パリ講和条約が締結された後の1783年11月3日、ほとんどの大陸軍部隊が解散した。1784年6月3日の大陸会議の決議によって、アメリカ陸軍が結成されるまでの間、小さな地域軍隊が、ウエストポイントと幾つかの辺境の前哨基地に残された。 == 結成、組織化、再編成 == 1775年4月にレキシントン・コンコードの戦いでアメリカ独立戦争が始まったとき、アメリカ植民地の独立推進派勢力には軍隊が無かった。それ以前の各植民地は地方の防衛のために一時的な市民兵からなる民兵隊に頼るか、フレンチ・インディアン戦争参戦のような特別の目的で一時的「植民地連隊」を立ち上げるかだった。独立戦争に繋がる数年間でイギリスとの緊張関係が高まったときに、アメリカ植民地人は将来の抗争に備えて民兵隊を結成し始めた。1774年に耐え難き諸法が成立した後は民兵隊を訓練する機会が増した。リチャード・ヘンリー・リーのような植民地人は植民地全体にわたる民兵隊の創設を提案したが、第一次大陸会議はこの考えを拒否した〔Wright, ''Continental Army'', 10–11.〕。民兵隊は完全に数が足りていなかった。レキシントン・コンコードの戦い後、ニューイングランド中から数千の民兵がイギリス軍に対抗するために集まりボストン包囲戦を始めた。 4月23日、マサチューセッツ湾植民地議会が26個中隊からなる植民地軍の立ち上げを承認し、その直ぐ後にはニューハンプシャー、ロードアイランドおよびコネチカットの各植民地から類似しているが小規模の軍隊が立ち上げられた。6月14日、第二次大陸会議が植民地共通の防衛のために大陸軍を設立することを決議した。「12の連合した植民地」(この時点ではジョージアがまだ会議の代表を送っていなかった)として、大陸会議はマサチューセッツのボストン郊外ケンブリッジに既に在った軍隊(22,000名)とニューヨークにあった軍隊(5,000名)を大陸軍の最初の部隊に公認した。また軽歩兵連隊として使うために、ペンシルベニア、メリーランドおよびバージニアの各植民地から1年間徴兵のライフル狙撃兵10個中隊も立ち上げ、これが後の1776年に大陸第1連隊となった。6月15日、大陸会議は全会一致でジョージ・ワシントンを最高司令官に選んだ。彼は必要経費を除いて無償でその役割を引き受けた。 4人の少将、アートマス・ウォード、チャールズ・リー、フィリップ・スカイラー、イズラエル・パットナムと8人の准将、セス・ポメロイ、リチャード・モントゴメリー、デイビッド・ウースター、ウィリアム・ヒース、ジョセフ・スペンサー、ジョン・トーマス、ジョン・サリバン、ナサニエル・グリーンが数日の内に指名された。ウォードとヒースはマサチューセッツ民兵の出であり、既にケンブリッジ駐屯軍に在籍していた。ポメロイは指名を辞退し、その跡は埋められないままになった。 大陸会議は独立した主権国家の立法府として徐々に責任を引き受け政策を出していたので、大陸軍の役割は相応の議論の対象となった。アメリカ植民地人の間には常備軍を維持することに一般的な嫌悪感があった。一方で、イギリスとの戦争遂行には近代的な軍隊の規律と組織を必要としていた。その結果、軍隊は幾つかの明白な段階を経て、部隊の公式な解体と再編成によりその性格を与えられた。 大陸軍の兵士はこの軍隊への従軍を志願した(給与はあった)市民であり、独立戦争の様々な段階でその標準的徴兵期間は1年間から3年間だった(戦争初期は大陸軍が恒久的な軍隊に変わることを大陸会議が恐れたので短期間だった)。総勢は17,000名以上に達することはなかった。特に1776年から1777年に掛けての冬などは兵士の出入りが常に問題となり、徴兵期間を長くすることが認められた。大まかに言って、大陸軍は幾つかの連続的な変化を経ている。 * 1775年の大陸軍:元々のニューイングランド軍からなる。ワシントンが3個師団、6個旅団、38個連隊に組織化。スカイラー少将がカナダ侵攻作戦にニューヨークの10個連隊を派遣。 * 1776年の大陸軍:1775年軍隊の兵士が徴兵期間を終えた後に再編成されたもの。ワシントンが最高司令官を引き受けた直後に大陸会議に推奨した形態だが、大陸会議での検討と実行に時間を要していた。ニューイングランド以外にも募兵を拡げる試みであったが、その構成や地理的な注力のために北東部に偏ったままだった。この軍隊は36個連隊からなり、最も標準的な部隊は768名からなる1個大隊で、640名の兵卒からなる8個中隊に編成された。 * 1777年から1780年の大陸軍:イギリス軍が独立戦争に決着を付けようと大部隊を送ろうとしていることが明らかになった時の幾つかの大きな編成替えと政治的決断の結果。大陸会議はそれぞれの邦が人口に応じて1個大隊の連隊を提供することを命じる「88個大隊決議」を通し、ワシントンは別に16個大隊を作ることを認められた。また、徴兵期間がそれまでの1年から3年または「戦争が終わるまで」に延長され、年の瀬に起こっていた軍隊崩壊を避けられるようにした(1776年暮れには軍隊がほとんど崩壊状態になり、戦争を終わらせてしまう可能性があった)。 * 1781年から1782年の大陸軍:アメリカ植民地軍の大きな危機。大陸会議が破産状態になり、3年の徴兵期間が終わった兵士を再雇用できなくなった。一般大衆の戦争に対する支持が最低の時期にあたり、ワシントンがペンシルベニアとニュージャージーの派遣部隊での反乱を鎮圧しなければならなかった。大陸会議は大陸軍の予算を削ることを議決したが、ワシントンは戦略的に重要な戦いで勝利を収めることがた。 * 1783年から1784年の大陸軍:今日まで続くアメリカ陸軍に受け継がれる時期。イギリスとの停戦が成立し、ほとんどの連隊が規律正しく解体された。 大陸軍の正規兵の他に、個々の植民地(邦)によって組織化され予算も付けられた民兵組織があり、戦闘にも参加した。時には民兵の部隊が大陸軍と離れて行動することもあったが、多くは大陸軍が作戦を実行するときの支援や増援であった。民兵は撤退が早すぎるという評判があった。カウペンスの戦いではこのことを逆手に取ってうまく戦略に結びつけた。 兵士への給与、食料、宿泊設備、兵装、兵器などの装備に対する財政的な責任は、各邦にその部隊の設立ともども割り当てられた。各邦はこの義務を果たすやり方が異なっていた。戦争中は財政を保つことや兵士の士気を保つことが常に問題であった。このことで兵士達には低い給与、腐った食糧、重労働、寒いときも暑いときもお粗末な兵装と宿泊設備、厳しい訓練および負傷または戦死する高い確率を課すことになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大陸軍 (アメリカ)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|